なぜ塾長のよし先生はプログラミングを始めたのか?

プログラミングに初めて触れたのは、小学校四年生くらいで、当時ファミコンがブームでした。今のSwitchみたいな感じです。そして、Switchにはマリオメーカーと言うゲームがありますが、ファミコンにはありませんでした。でも、直接プログラムを触る事が出来て、自由にステージを作る事が出来ました。当時、ぼくはまだ友達のお父さんが作ってるのを見るだけで、出来たステージを遊ばせて貰うだけでしたが、子供ながらに「プログラムってすげーな!」、「難しそうだけど、なんでも出来る凄いものなんだ!いつかやりたい!!」と感じました。中学になると親にねだり、当時45万もするパソコンを買って貰いました。でも、当時は、プログラムなんて教えてくれる人もおらず、ネットもほぼサイトが無かったりで、本などで独学で調べても半分以上英語で難し過ぎて挫折しました。もちろん、親も全く分かりませんでした。
そう。先生は一度、プログラミングに挫折しています。45万ものパソコンは、ただの箱になりました。
それから、5年。先生は高専と言うところに居ました。プログラミングは、ダメだったので、もう一つ得意で好きな化学を専攻しました。そのまま、ノーベル賞を
取ろうと思ってましたが、進路を決める頃にゼミの教授が亡くなりました。肺がんで45歳でした。原因は明確。実験の際に使ってる薬品を微量に吸ってたからです。ぼくも同じ実験をしてました。お葬式に参列し、青白くなった教授の顔を見て涙しながら、横に立ってた奥さんと小学生くらいの子供が泣いてるのを見て、余計に涙したのを鮮明に覚えます。志半ばでぼくも死ぬかもしれない。そう思って、安全なプログラムをまたやりたいと思うようになりました。たまたま、高専では、化学にもIT系の求人が来ていました。そして、日立、NECと何処でも行けました。(高専は就職が楽です)たまたま、富士通はグループ内最大の子会社の富士通ビジネスシステム(現、富士通Japan)が千円初任給が高かったので、そこにしました。
研修は3ヶ月もありJavaと基本情報処理試験対策を学びました。IT辞書も渡されたので、最初から全部読みました。ここで初めて挫折したプログラミングがまた好きになりましました。夢中で勉強したのを覚えています。一人東京に来て、寮に入り、生きていく為に必要だったから、本気でした。それでも、たくさん苦労したのを覚えています。ITは英語ばかりです。さらにプログラミングのロジックに慣れないといけないので、とても大変でした。挫折した人も2,3割は居たと思います。結果的にエンジニアで内定貰ったのに、営業配属になった人もいました。
今思えば、最初に日本語でプログラミングが書けたら、もっと楽にロジックを考えれるようになったのになと思います。ロジック考える脳が出来上がるには時間がかかるのです。
だから、僕はプログラミング教室を通じて、まずはロジックを考えられる脳を育ててあげたいです。それから、英語でプログラムを書きましょう。そうすると、挫折する可能性がとても低くなります。
日本の子供たちみんながプログラミング出来る時代へ。誰もがパソコンでする単純作業をプログラミングで自動化して、よりクリエイティブで顧客価値のある仕事に集中できるように僕はプログラミングを教えていきたいです。